緑一色と九蓮宝燈は、メンツの種類を基にしていない、いわばイレギュラーな手役。そのため、役満にもかかわらず見落としやすい手役です。特に九蓮はメンゼン限定なので、仕掛けることで能動的に作れる緑一色より見落としが多そうです。
緑一色の見落としと聞いて思い出すのが、『もっと勝つための現代麻雀技術論実践編』のコラムで私が影響を受けた打ち手の一人として紹介した桂田氏のブログ。上家がをポンしてソーズ染め傾向だったので、早めに処理するつもりでのリャンカンを全部落としたら、「ポンポンロン」で32000献上。まさかがポンされた時点でメンツ候補が全部揃っているとは思わないのでまさに、「事故」ですが。例えばをでチーして打のように、緑一色ならではの手順があれば読めることもありそうです。
そうすると読みを逆用して、からをでチーしてを切れば、他家が緑一色と読んで緑色の牌を切らせなくすることや、リーチする予定の手をダマにさせて失点を軽減することができるかもしれません。緑色の牌以外は何でも切れると読んだ他家が降りずにアガってしまう可能性もあるので、本当に有利に働くと言えるかは怪しいものがありますが(笑)
話がずれますが、あえてドラを切る選択つながりで思い出したのは、『リーチ麻雀論改革派』で取り上げられていた雀鬼こと桜井章一氏の「流れ」に関する話。「ドラがでと持っていて、をでチーしてドラを切る。こうでもしないと流れというものは変わらない」というもので、著者の天野晴夫氏は打点を下げてドラを切るリスクを負うだけど全くの誤打と酷評していました。
しかし、をでチーしてドラ切りとなれば、他家はまさか待ちだとは思わないでしょう。待ちならでチーするはずだからです。有り得るとすれば456三色かソーズの一通を確保するための仕掛けで、待ちは別のところと考えるはずです。チーなら他家から出なかったはずのでアガれるようであれば、「ゲーム展開」という意味での「流れ」は変わったとも言えます。他に赤2枚あってドラを切っても打点が下がらないとなれば、確かに有力そうです。
当時は麻雀で「流れを変える」と言えば、「今後の抽選を変えるためにあえて不利に見える選択を取る」という意味で専ら使われていたので、本書でそのような「流れ」は無いと主張するのは適切です。現在であれば、麻雀における「流れ」は極めて多義的に使われていて、発話者の中でも意味が共有されていないことから、誤解を防ぐうえでも、「流れ」と表現されてきた言葉に別の言葉を宛てがうべきであるとでも言うところでしょうか。今回のケースであれば、「展開を変える」と言えば済むところです。
ただ、是非はともかく、一見有り得なそうな打牌選択があれば、「何故その牌が選ばれたのか」については意識を向けるようにしたいものです。例え誤打であったとしても、「誤打が起こった理由」も踏まえて考えれば読みの精度を高めることにもつながります。
とはいえ、あえて使えるドラを切ったとなると、「ドラを切るだけの相応の理由があるレアケース」なのか、「ドラの見落とし」なのか、「晒し間違い」なのか、「打ち手自身はドラ切りが正着だと思っている」なのか。それぞれの可能性がどの程度なのかを見極めるのは相当困難です。「麻雀に正解はある」と申しましたが、「正解を導くために必要な知識が十分揃っているか」と言われれば、正直な話「全然足りていない」としか言い様がないですね。