『鉄鳴きの麒麟児』『鉄押しの条件』『序盤の鉄戦略』のように、昨今の麻雀界では「鉄」という表現をよく見かけます。堅くて間違い無いことを、堅さのイメージから「鉄板」と表現され、それが縮まり「鉄」と呼ばれるようになりました。ギャンブル関連で使われることが多いですが、創作物でも「鉄板ネタ」という言葉が使われるように、「鉄板」であれば一般的にも通じることが多いと言ってよいかもしれません。
「鉄板」を「鉄」と省略するようになったのが何時頃かは定かではありませんが、私がサイト版「現代麻雀技術論」を書き始めた2007年以前から、麻雀仲間の中で「鉄」という表現は頻繁に使われていました。活字という形で登場したのは、2011年より近代麻雀で連載されていた、『麒麟児の一打 鉄鳴き』が初めてでしょうか(未だに『鉄鳴きの麒麟児』と名前を混同しそうになります。こちらは2012年より連載)。著者の堀内氏のコラムの中にも、第108回のCさんのエピソードが出てくることからも、当時の麻雀強者の中で、「鉄」というスラングが広まっていたことが伺い知れます。
語感の良さもあり、一部のネット麻雀界隈ではすっかり定着した感のある表現ですが、私自身はこの表現をあまり好みません。理由はいくつかありますが、一つはやはり安易に使われがちで、むしろ正着とは言い難い打牌にまで用いられることが少なからずあることです。
これは致し方ないところもあります。何故なら、麻雀を打ち慣れてそれなりに結果を出している打ち手にとって間違い無いと言いきれる選択は、わざわざ強調してまで正解と主張する必要がないためです。私達は信じて疑うことすらしない対象について「信じる」という言葉は使いません。(信じるかどうかと二択で聞かれた際の返答としてでなければ)「信じる」という言葉は、どこか心の中で疑っている場合に使われるものです。発話者が殊更に「鉄」と主張しているのを見ると、本人も自分の選択が正しかったと確信できずにいるのではないかと邪推してしまいます。
他の理由としては、単なる言葉尻ではありますが、そもそも鉄はそんなに硬くないということです。加工しやすいからこそ、鉄を用いた様々な製品が生み出されます。とある書籍の中で、鉄鋼業に務めている方が、「鉄ほど柔らかいものもない」と言われていたのが印象的でした。硬いものの象徴として使うなら、「ダイヤモンド」「オリハルコン」とでもなるのでしょうか。ちなみに仏教では、仏、菩薩の堅固不動の心を「金剛心」と言いますが、金剛とはダイヤモンドのことだったりします。金剛鳴き、金剛リーチ…あまり語呂がよくないですね(笑)
おふざけはこれくらいにしておいて、もう一つの理由は、麻雀は「その選択が最善手であることは明確でも、次善手以降との差がそれほど大きいわけではない」ことも、その逆もよくあるためです。前者のケースで正解を出すことにこだわり過ぎると、「最善手が何かを検証するのは極めて難しいが、結果に非常に影響しやすいので極力ミスを避けたい」ケースが蔑ろにされる恐れがあります。正解を出すことは出来ても、次善手以降とどの程度差がつくのかという定量的な比較は人間にとってかなり難しいので、自分の主張が間違っていないとしても、実力をつけるうえでこだわるべきところは本当にそこでいいのかを、今一度確認することを怠らないようにしたいものです。