本日は秋分の日ですが、秋彼岸の中日でもあります。彼岸とは仏様の世界、浄土のこと。それに対して私達の世界のことを此岸、穢土とも言います。麻雀に限らず勝負に明け暮れ、勝った負けたと騒ぐ日々ですが、本当は勝っても負けても構わないんだという仏様の価値観を、お聞かせにあずかり心に刻む日とさせていただきたいものです。
彼岸会で少しばかり麻雀の話をさせていただいたのですが、門徒のお爺さんが話に食いつかれて、若い頃はよくやったもんだと昔を懐かしまれていました。しかしそのことは嬉しかったのですが、次に出てくる言葉が、「でも麻雀は賭けないと面白くない」で少し困惑させらてしまいました。
しかし、このお爺さんが想像している、「賭けない麻雀」がいかなるものかを考えれば、そのような言葉が出るのも無理はありません。私が普段遊んでいるオンライン麻雀は本当に「賭けない麻雀」でしょうか。いえ、そうではありません。段位戦では段位ptを勝敗に応じてやりとりをします。賭けの対象が金銭や物品ではないというだけで、勝負の構図としては変わりません。もしネット麻雀に「段位戦」が無く、勝敗が記録されない麻雀を淡々と打つだけのものであれば、ここまで流行ることはなかったでしょう。
「麻雀にも強いとか弱いとかあるの?」と聞かれたお婆ちゃんもいらっしゃいました。これもやはり、お婆ちゃんのイメージの中の麻雀を考えれば無理もありません。遊びとは、「競争」「偶然」「模倣」「眩暈」の4要素に分けられ、麻雀は全ての要素を含むゲームであることは以前お話しましたが、飛び抜けて強い相手がいるわけでもない、仲間内でたまに卓を囲む程度の打ち手であれば、麻雀の持つ「競争」の要素に気付くことは難しいでしょう。
また、強さに限らず、かっこいい打ち方、魅せる打ち方を真似したいという「模倣」の要素についても、麻雀の世界に興味を持ってある程度の知識を身に付けなければ気付きにくいものです。麻雀というゲームがいかなるものかを辛うじて知っている人にとっては、麻雀の持つ遊び要素は、「偶然」「眩暈」が大半。それならばやはり、「賭けないと面白くない」という考えになりがちです。もし麻雀がサイコロを振って出た目の数を競うだけの遊びであれば、少なくともネットでここまで流行ることは有り得ません。
こうした方々にも、麻雀の本当の面白さを伝えたい。その思いは私にもあります。しかし、その人達が持つ麻雀のイメージも間違いというわけではなく、麻雀が持つ要素の一面なのは事実であることは留意しなければなりません。競争か偶然かといった対の概念が出てくると、互いに両立せず相容れないものと思いがちですが、対の概念も時として両立し得るということを度々気付かせてくれるのも麻雀というゲームです。
仏様の世界、浄土は全てを受け入れます。仏様のようにとはいかずとも、あらゆる麻雀観を今一度受け止めて、今後の麻雀界の発展に少しばかりでも貢献したいと思わされたことでありました。