本日は2019年9月26日。『アカギ 〜闇に降り立った天才〜』の主人公。赤木しげるの往生から丁度20年。麻雀漫画の中で最も好きなシーンは何かと聞かれたら、私なら迷わず、『天 天和通りの快男児』の赤木の最期のシーンと答えます。
現実は漫画の赤木のように、人並み外れた才覚と豪運で一人の打ち手が麻雀で勝ち続けるようなことはありません。麻雀研究が進むにつれ、麻雀漫画で度々描写されてきたような、運気を操るといった類の超能力はオカルトに過ぎないということが判明していきました…本当は識者の方はとっくに気付いていたのかもしれませんね。気付いていたからこそ、せめて創作物の中では、絶対無敵の打ち手を登場させたいという思いがあったのかもしれません。
麻雀の真理を追究するうえで、オカルトが排除されつつあるのは望ましいことです。しかしその一方で、例えば「死後の世界が存在する」といった考えもオカルトに過ぎないと一蹴する人も増えました。しかも麻雀打ちとして聡明である人ほど、そのような傾向があるように見受けられます。
赤木が最期の日に仲間に語った「死生観」の話。ここで語られている「生命のサイクル」という意味では、生命は不死であり、そのサイクルこそ、「輪廻転生」そのものです。「(生きている時の身体がそのまま残ったような)死後の世界」を信じている人向けに説かれた話だからオカルトじみて聞こえるというだけで、概念自体はオカルトではないという話は以前もさせていただきました。
赤木はガンに冒され死の恐怖に怯える銀次には、「死はおっかないもんじゃない」と慰め、彼我の差に絶望し人生に燻り続けていたひろゆきには、「熱い三流なら上等よ」と励まします。生命は死んで終わりじゃないし、どんな生命も輝いて尊い。私には晩年の赤木の姿が、相手の能力、素質に応じて法を説いたお釈迦様に重なって見えたことでした。
私どもの宗旨では、浄土で仏に生まれたものはそのまま浄土に留まるのではなく、こちらの世界に戻って来て、迷える衆生を仏にするべく教化すると説きます。作者の意図は量りかねますが、ひょっとしたら赤木は、衆生を教化すべく闇に降り立った仏様だったのかもしれません。伝説の博徒として降り立ったのは、年がら年中博打に明け暮れているような、いかにも救い難そうなダメ人間を教化するにはそれが一番良かったからであります。
博打打ちがダメ人間なら、「ダメ人間にすらなれなかった人間」なのが私でありますが、この度はおかげさまで仏縁に恵まれました。どうぞ皆様もこの日ばかりは、仏前で手を合わせ、共々に生命について思いを馳せる一日にさせていただきましょう。南無阿弥陀仏。