夕刊フジ杯争奪麻雀女流リーグ2021で個人優勝と念願のタイトルを獲得し、セガサミーフェニックスからドラフト指名された東城りおプロ(日本プロ麻雀連盟)。“ミス・パーフェクト”というキャッチフレーズを持つ彼女が歩んできたジェットコースター人生から垣間見えてきた素顔とは?
幼少期に夢中になっていたことはありますか?
「とにかく走ることが好きで、短距離なら学校で一番早かったですね。あとはゲームボーイに熱中してました。当時はプレイステーションにすごい憧れがあったんですが、両親がテレビ好きなので、テレビを使うゲームは買ってもらえなかったんです。それでゲームボーイを極めようと、授業中でもやっていたら、先生に3回没収されました(笑)」
部活は何かやっていましたか?
小学校ではバスケと水泳、中学では陸上部に入っていたんですが、中学3年の受験時に肺気胸になって3週間入院し、退院したその日に肺の違う箇所にまた穴が開いてしまって、さらに2週間入院ということがありました」
「そのため高校では帰宅部となり、体力の全てはゲームに費やしていたので、高校に通う意味が見つけられなくなってしまったんです。両親も言うほど反対していなかったこともあり、だったらやめちゃおうと、高校2年の時、修学旅行から帰って来てから中退しました」
「今は日常生活には全く問題ないんですが、スキューバやスカイダイビングは控えるように言われています。カラオケもやり過ぎると再発する可能性があるので、歌う時は肺に負担をかけ過ぎないよう意識しているつもりです」
高校中退後はどうされたのですか?
「夢を追いかけようと東京に行きました。小さい頃から歌手やモデルになりたくて、物心ついた頃にはキャメロン・ディアスのようになりたいと思っていたので、原宿竹下通りを歩いていて、もしもそこでスカウトされたら、その人についていこうと(笑)」
「実際、そこでスカウトされた人について行って、モデル事務所に所属することになったんですが、そこにいたのはわずか数カ月でした。なぜなら一旦荷物をまとめに実家に戻っていた時、いきなり警察から電話が来て、事務所の社長が逮捕されたと知らされたからです。だから東京に引っ越しした時には、すでに事務所がなくなっていたので、知り合いのモデルの先輩に仕事をもらったり手伝ったりしながら、パチンコ屋さんと麻雀店でもアルバイトを始めました」
麻雀を知ったのはいつ頃だったのでしょうか?
「小学校5年生の時、お父さんからパソコンでやる麻雀ゲームを教えてもらったのが最初です。平和やらタンヤオやら役の説明をしてもらっても、何を言っているのかさっぱりわかりませんでしたが、麻雀をはじめ、囲碁、ゴルフとお父さんの趣味を全部叩き込まれました。中学生になってからはネット麻雀を始めていて、リアル麻雀は高校1年の16歳の頃に友達同士で手積みでやったのが最初です。当時初めてアガった役満は四暗刻で、その後すぐに地和をアガリました」
プロ入りしたきっかけは?
「ウエイトレスのアルバイトをしていた渋谷の麻雀店で、麻雀プロという存在を初めて知りました。スタッフのほとんどは、日本プロ麻雀協会の所属プロだったので、20歳の時に日本プロ麻雀協会にプロ入りしました。プロ入り後は、いろんなお店からゲストで呼んで頂けるようになり、新宿にあった麻雀店の専属プロになりました」
「丁度この時期に勉強会やお店のゲストとしていらしていた日本プロ麻雀連盟の伊藤優孝さん、山田浩之さん、前原雄大さんに出会いました。振り返ればこの出会いが、麻雀プロ人生のターニングポイントだった気がします。優孝さんは同郷だったことで気軽に声をかけてくれ、浩さんは勉強会で麻雀の楽しさを教えてくれて、前原さんからは今まで一番辛いことって何がありました?って聞かれて、私は無いです!って即答したんですけど、その返答でこの子は大成すると思ってくれたそうで、後で何かとフォローしてくれていたと知りました。この方たちに出会って麻雀の楽しさを改めて実感し、極めていきたいと思い、所属人数が多かったり、メディアに強かったりと、さらにいろいろな経験を積むことが出来そうな日本プロ麻雀連盟に移籍しました」
結婚後、プロ活動を休止されていた時は、どのような気持ちだったのでしょうか?
「結婚後、すぐに東京を離れて長野県の山奥に引っ越すことが決まっていたため、麻雀プロ活動から離れなければならない状況ではありましたが、正直それが嫌で嫌でたまりませんでした」
「東京を離れる時、日本プロ麻雀連盟の森山茂和会長に挨拶に行きました。プロ辞めますとお伝えしたんですが、会長は今残っている仕事が全部無くなった時にやめるかどうかは改めて考えろと言ってくれて、休会という形にしてくれたんです」
「でもやっぱり麻雀プロに戻りたいという思いが募り、2年後に離婚したんですが、会長に復帰の旨の挨拶に行ったら、おう!帰ってきたなって、温かく迎え入れてくれました。麻雀プロを続けて来られているのも、ドラフト指名を頂けたことも、様々な人の支えやアドバイスがあってのことなので、本当に感謝しています」
ご自身のチーム内における役割をどう捉えていますか?
「強気に攻める姿勢を変えずに戦っていくところが私のアピールポイントなのかなと思っています。監督もチームメンバーも、たとえ負けた時でもちゃんと戦えているかどうか、内容と姿勢を重視してくれています」
「私としても勝負どころをしっかり見極めた上で、間違えてしまう時もあるんですが、弱気になって負けるより、前のめりで戦い続けたほうが、たとえ負けたとしても気持ち的には清々しい。そういった心持ちでいられるのは、チーム関係者全員の存在が心の支えになっている気がしています」
「あとはとにかく迷惑をかけないようにしようと思っています(笑)。チームにとってはポイントがマイナスしてしまうのが一番の迷惑ですが、その他のことに関しても考えながら行動していくよう心がけています」
チームの雰囲気はどんな感じですか?
「チームメンバー(魚谷侑未プロ、近藤誠一プロ、茅森早香プロ)は本当みんな自由な感じなので自然と溶け込めました。たとえマイナスしたとしても気にする必要はないから自分らしくやればいいんじゃないと言ってくれたこともあり、実際、私は自分のペースで思いっ切りやっている時の方が、麻雀の調子もいいのでありがたいかぎりです」
麻雀プロとして心がけていることは?
「結構切り替え早いよねって言われることは多いんですが、実は切り替えが下手な人間なんです。正直めちゃくちゃ引きずるんですけど、それは単に自分だけのことなので、それを人前で表情や態度で出すのがすごく嫌いなので、そこは心がけています。麻雀は勝った人が主役のゲームだと思っているので、負けたら脇役に徹したい。自分の負け云々よりも勝った人を讃えたいなっていう気持ちがあるからです」
「だから本当の意味で切り替えられた時って、それ自体を克服して上塗り出来た時しかないんだろうなと受け止めています。負けたのは全て自分の責任であり、その瞬間、一生懸命やって結果であれば、今の自分の実力を受け入れるしかないなと。負けた時こそ泣きそうになっちゃうし、早く帰って美味しいご飯食べて風呂入ろうみたいに思うんですけど」
麻雀を通じて磨かれたことはありますか?
もともと本当にちゃらんぽらんだったんですが、麻雀プロになってから、いろいろな物に対する見方が変わったというか、自分を俯瞰で見られるようになった気がします」
「だから心の中では引きずっていたとしても、むすっとするのって、すごく盆面(ぼんづら)が悪いと思うんです。勝負事で負けた時もスポーツマンシップを忘れないとか、そういうところは大きく変われたかなとは思いますね」
東城りお(とうじょう・りお)プロフィール
生年月日:1990年9月18日
出身地:秋田県
血液型:A型
所属プロ団体:日本プロ麻雀連盟
キャッチフレーズ:ミス・パーフェクト
趣味:ゲーム、アニメ、漫画
勝負めし:カレーライス(甘口)
DVD:『東城りお Rio TIME!』『東城りお 女神降臨』
年 | 年齢 | 主な出来事 |
---|---|---|
1990 | 1歳 | 秋田県で三姉妹の末っ子として生まれる |
1996 | 6歳 | 小学生時代は走ることとゲームに熱中 |
2004 | 14歳 | 肺気胸を患い、約1カ月間入院する |
2007 | 17歳 | 高校中退後、タレントを目指し上京 |
2010 | 20歳 | 日本プロ麻雀協会にプロ入り |
2011 | 21歳 | 日本プロ麻雀連盟に移籍 |
2018 | 28歳 | 結婚を機にプロ活動を一時休止 |
2020 | 30歳 | 離婚後、プロ活動を再開 |
2021 | 31歳 | ロン2カップ2021winter 優勝 夕刊フジ杯争奪麻雀女流リーグ2021 個人優勝 セガサミーフェニックスからドラフト指名 |
◎写真:佐田静香(麻雀ウォッチ) 、インタビュー構成:福山純生(雀聖アワー)