最高位戦日本プロ麻雀協会。その頂点となる最高位という称号。団体創立後、最高位を連覇したプロは過去40年間で5人。小島武夫プロ、金子正輝プロ、飯田正人プロ、古久根英孝プロ。そして張敏賢プロである。第19期最強位でもある張プロ。プレイヤーとしての輝かしい実績を持ちながら、その能力は、ビジネスの世界にも広がりを見せ始める。その熱い思いの原点を探る。
張敏賢(ちょう・としまさ)プロフィール
1973年、東京都生まれ。42歳、O型。山羊座。法政大学経営学部卒。最高位戦日本プロ麻雀協会所属。26歳のとき、第24期生としてプロ入り。第31期・第32期最高位。第19期最強位と獲得タイトル多数。好きな役はホンイツ。
選択肢のひとつとして
東京は港区西麻布。最寄駅は六本木か広尾。どこにでもあるチェーン店は少なく、個性的な店が立ち並ぶ。いわゆる大人の街。張敏賢プロが新規オープンした《NishiazabuRTD》は、そんな街にある。
「繁華街にあるマージャン店には、若い世代が多い。場代が安いので、卓はすし詰め。そんな中でもゲームを楽しめるのはマージャンの魅力のひとつです。ただ女性をはじめ、男性も歳を重ねてくると少し居づらくなってくるのかなと」
店内に足を踏み入れると、座り心地のよさそうなソファが目に入ってくる。卓上には柔らかい照明。空間に馴染む木目調のサイドテーブル。そしてバーカウンター。卓は5卓。営業スタイルはセット専門。マージャン店の概念を覆す、まさに大人の社交場である。
「例えば飲食店はニーズに応じて店を選べます。家族や仲間と。恋人や夫婦で。ビジネスでも。シーンに合わせ、特徴を持った店を選ぶことが出来ます。マージャン店の場合、その選択肢がほとんど無い。自分の趣味やライフスタイルに合わせて使って頂けるお店であれば、少しは需要があるかなと。そういったコンセプトに、お金を払う価値を感じてくれたら嬉しいですね」
マージャンを覚えたきっかけ
「中学生のときにファミコンで覚えました。瞬く間にその魅力に惹き込まれまして。すぐに同級生と卓を囲んでました。そして高校生になったとき、フリー雀荘デビューしたんです。もう時効ですが(笑)。そのときのことは今でも鮮明に覚えています。一度もアガれず、あっという間に東場が終了。迎えた南2局。フリーデビューで初めてアガったのが国士無双だったんです。めちゃくちゃ嬉しかったですね。当時はすでにパチンコでも稼いでいたんですが、金額は少ないのに喜びの度合いが全然違いました(笑)。それからフリー雀荘によく行くようになりましたね」
めちゃくちゃ怖かった対局
大学進学後。近代麻雀に掲載されていた店舗広告に目が留まったという。
「漫画家・西原理恵子さんのキャラクターが描かれていた店舗広告が出ていたんです。《BOY》という店で、池袋に新規オープンとのこと。当時最高位戦プロ麻雀協会に所属していた古久根英孝プロの名前も書いてありまして。興味本位で行ってみたら、いたんです。古久根プロ本人が。その印象たるや、めちゃくちゃ怖かった(笑)。当時10代だった私から見たら、雑誌で知ってるプロ雀士が目の前でマージャンを打っている。その真剣な表情がとにかく怖くて。運良く古久根プロと7回ほど同卓できました。ただそれは、今までやってきたマージャンとは全く異なるものでした。それまでは、ワイワイやってる部活みたいなマージャンしかやったことがなかったので。プロの気迫に圧倒されました」
自分の中で踏み出した一歩
古久根プロとの出会い。それはプロの存在を初めて意識した瞬間でもあった。そして26歳のとき。ある決断をする。
「大学生だった頃に親父が倒れまして。実家の家業を手伝わなければならない状況になっていたんです。目の前にある現状と先が見えない未来。当時はまだ若く、これからどこに向かえばいいのか。正直わからなくなっていた時期でもありました。ただひたすらマージャンだけは打っていたんです。26歳のとき、親父が逝去しました。もしかしたら自分の中で一歩踏み出そうという気になったのかもしれません。同年にプロ入りしました」
「まず最初に決めたのは『やるからには団体の頂点である《最高位》を取ってやろう』ということ。そう決意すると、周りの誰もがライバルになるわけです。だから他のプロとはまったくしゃべりませんでしたね(笑)。古久根プロの勉強会に声をかけて頂いたので、参加したことがありました。でもそのときに感じたことは『古久根プロに教わっているかぎりは、古久根プロには勝つことは出来ない』そう思ったんです。生来の頑固な性格もありますが、それ以来、勉強会には参加せず、フリー雀荘でひたすら打ち続けるという独学スタイルで研鑽を積んでいきました」
家業を手伝いながらのプロ活動
母親と文字通り二人三脚で家業を経営。もしも母親が病気になったら、プロ活動の継続は難しくなる。とにかく勝つしかない。そんな思いで日々を過ごしていたという。
「家業が終わってから、マージャンを打ちにいく。雀荘で働いているプロにくらべると、格段に対局回数は少ない。だから寝る時間を削って必死に打ってました。プロ入りから5年後にAリーグに昇格。このとき初めて『麻雀で生きていきたい』と思ったんです。そして目標としていた最高位を獲得し、連覇することができました。雀荘ゲストとして声をかけてくださる機会が増えたり、TV対局に出られたりと、周りの環境は多少よくなりました。でも思い描いていたような環境とはギャップを感じたんです。プロとして、そういった活動だけで生活が成り立つわけは当然なく、基本は雀荘で働きながらプロとして生きることになります。したがって、プロの世界でタイトルを獲った人間が、アマチュアの方とフリー雀荘で真剣に戦う。根本的には学生時代にやっていたマージャンと変わっていないのかなと。もちろん否定はしませんが、自分の中では正直だんだんわからなくなってきたんです」
模索する中で見えた光明
自分にとってマージャンとは何か。プロ雀士の存在とは何のか。模索する中で新たな転機を迎える。
「飯田正人プロに敗れ、最高位を失った2008年。自分の中でひとつの答えが出ました。それは飯田プロのようには生きられないということ。生涯プレイヤーとして雀荘に勤め続け、どこで打っても一番成績がよかった飯田プロ。最高位を5回とれたら、飯田プロに次ぐ永世最高位という称号をもらえる。そこを目指す選択肢もあるのですが、飯田プロのようにモチベーションを保てるのかと言われれば、自分には厳しい。そう確信しました。プレイヤーとしては飯田プロには敵わないと思ったのです。しかし麻雀で生きていくためには、プロ活動を続けながら、生活基盤も確立しなければなりません。であれば、飯田プロとは違うこと。飯田プロには出来ないこと。それをやるしかないのかなと」
プロ活動を維持するためには、それが出来る環境が必要となる。たとえ強者であっても環境が許さないゆえに、辞めていくプロも多い。
「古久根英孝プロと出会い、古久根プロのようにはなれない。飯田正人プロに出会い、飯田プロのようにはなれない。当たり前ですが張敏賢以外の何者でもないわけです。でもそう感じてしまった以上、自分に何ができるのか。それは団体、強いては業界全体の環境整備が急務ではないか。そんな結論に行き着きました」
マネジメントに力を注ぐ
2006〜2007年、最高位を連覇。さらに最強位にも輝いた2008年。事務局長として団体運営の中枢を担う決意をする。
「私が最高位をとった約10年前。当時は映像配信など無かったので、記録は牌譜(※将棋で言えば棋譜)だけ。最高位決定戦は1日4回戦。5日間かけて計20回戦を闘うのですが、最後の20回戦目まで4人が僅差で、誰が勝つのかわからないデッドヒートでした。対局後、最高位決定戦に関するインタビュー取材を受けた折。牌譜を探してみると半分以上がなくなっている。プロにとって、対局記録である牌譜は財産です。運営はほぼボランティアでやっていたので、責められないのですが。当時を振り返るとそんな状態でした」
「したがって、運営として最初にやったことは、牌譜の整理と管理。さらにオフィシャルサイトのリニューアルにも着手しました。パソコンを触ったことも無い人間でしたが、団体に関するニュースも自分で取材し記事にしました。1人でも多くのアマチュアの方にプロ団体の活動を知ってもらいたい一心でした」
2009年、最高位決定戦をDVD化。さらに2010年には対局映像をニコニコ生放送で初配信。当時は各プロ団体のリーグ戦を観戦するには、対局会場に直接行くか、観戦記を読むことでしか楽しむことが出来なかった時代。リーグ戦の対局を映像で見せたこの企画は、マージャンファンにとっては、画期的なことだった。
「DVD撮影は、対局会場となったマージャン店内にカメラを配置。同じビルにあった居酒屋さんの宴会場を貸し切り、カラオケステージにモニターを5台(手牌4台、天カメ1台)を設置。対局会場の各カメラからコードを窓伝いに繋いでのパブリックビューイング。今では考えられませんが(笑)。入場料を頂戴する形式で告知したところ、100人以上入れるスペースが満席になりました。この日の帰りは、嬉しさのあまり泣きながら運転して帰ったことを覚えています」
「ニコ生も予想以上に反響が大きく、その後《麻雀スリアロチャンネル》が立ち上がるきっかけにも繋がりました。予算もまったく無い中、まさに手作りの企画でしたが、この映像化の成功で、先の可能性を感じていました。さらにこの企画は、力を貸して頂いた方をはじめ、外の世界と繋がるきっかけにもなりました。団体の事務局長として、タイトルホルダーという経歴は、営業の肩書きになっていたのかもしれません」
マージャンが導いてくれた出会い
ここ数年。独立してきちっとお金を稼がなければという思いを秘めていたと語る張プロ。生き方を左右するような出会いがあったという。
「2年ほど前。人材派遣会社フルキャストホールディングスの創業者である平野岳史さんと知り合うご縁がありました。私からすればまったく関わりの無い世界にいる方なのですが、プロ雀士という肩書きをおもしろがってくれまして。平野さんから株式会社サイバーエージェントの藤田晋社長を御紹介頂いたんです。藤田さんは私と歳も近く、レベルの高いマージャンに飢えているとのことでした。もちろん麻雀を打ったのですが、同卓者は錚々たる企業の社長がずらり。あのときほど緊張した対局はありません(笑)。マージャン中、藤田さんは寡黙でした。ですが、対局後の飲み会で『麻雀プロと知り合えてうれしい』と言われまして。私からすれば、まさにカリスマ経営者。独立を考えていた時期でもあったので、衝撃的な出会いでした。それから藤田さんとのお付き合いが始まりました。その御縁で独立することに至ったわけです」
ひたむきに。もがき続ける
2015年3月。最高位戦日本プロ麻雀協会・事務局長としての任期が満了。新たに挑むこととは?
「理事補佐1年。理事兼事務局長として6年。最高位戦日本プロ麻雀協会の運営を7年にわたって担当してきました。自分の中では、やれることはほぼやってきたかなという実感があります。模索しながら進んでいく中。プロの世界のみならず、より大きな視座で、マージャン界に新しいビジネスを構築したいという考えが生まれ、昨年11月に株式会社RTDを設立しました。社名はリーチツモドラ1の頭文字をとってRTD(笑)。1000/2000から始めましょう。それから満貫以上を目指しましょうという考えです」
「新しいコンセプトとなるマージャン店《NishiazabuRTD》はオープンまでの準備期間に1年ほどかかりました。その間に《麻雀企業対抗戦》の企画・運営をはじめ、MONDO TV新番組《第一回 麻雀大王位決定戦》、《MJモバイルプロリーグ》、《麻雀最強戦サイバーエージェントカップ》等に携わってきました。今後はそういった企画・運営をさらに広げていきたいと考えています。そして《NishiazabuRTD》も軌道に乗ったら、繁華街ではなくビジネスエリアへの店舗拡大を検討していきます。また初心者ではなく、中級者以上を対象としたレッスンプログラムを構築できれば、男子プロへの新しい仕事の供給もできるのではないかと考えています。いずれもまだ企画段階なので、とにかくひたむきにもがいていくだけですね」
好きな言葉
「アントニオ猪木の『迷わず行けよ。行けばわかるさ』。プロ活動も運営もとにかくやってみなければわからない。自分の行動を支えている言葉です」
張プロにとってマージャンとは?
「マージャンと自分は、一体化している感覚があります。私もそうですが、この道を目指す人は一般的な道からはドロップアウトしているわけです(笑)。ただラクだからと外れても、結局苦しくなるだけなので、覚悟が必要です。私自身。『マージャンで生きる人』というより『マージャンで生きていくためにもがいてる人』なんです(笑)。もがき続けてプロになり、プレイヤーから団体の運営者になり、そして1年前に会社を設立してようやく店舗を持ったところです。ここに至るまでに本当に多くの方に支えられてきました。少しづつでも恩返ししていきたいですね」
インタビューを終えて
プロ野球界でよく言われている「名選手、名監督にあらず」。果たしてそうなのだろうか。この通説は、プレイヤー時代の実績や成功体験に縛られ、コーチングスキルを身につけられていないということ。端的に言えば、意識転換が出来ていないことのたとえに過ぎない。トッププレイヤーという立場を経験し、さらにそこから団体のこと、業界のことに向き合ってきた張プロ。覚悟が生み出す新しいマージャン文化の創造。目が離せない。
文責:福山純生(雀聖アワー) 写真:河下太郎(麻雀王国)
◎NishiazabuRTD
東京都港区西麻布3-24-22 プラザ西麻布5階
TEL:03-6434-0752
HP:http://www.rtd.co.jp
マージャンで生きる人たち back number
- 第1回 株式会社ウインライト 代表取締役社長 藤本勝寛
あらゆる挑戦は、すべて〝妄想〟から始まる - 第2回 株式会社F・R・C代表取締役 香宗我部真
<作業>が<仕事>に変わった先にあるもの - 第3回 ターナージャパン株式会社 制作部 プロデューサー 上島大右
好きなことを仕事にしようと考えるより、自分の仕事を好きになる努力するほうがいい - 第4回 フリーアナウンサー 土屋和彦
しゃべるのが仕事。しゃべることを取材することも仕事 - 第5回 株式会社セガ・インタラクティブ セガNET麻雀MJディレクター 高畑大輔
「マージャンのおかげでキレなくなりました(笑)」 - 第6回 RTD株式会社 代表取締役 張敏賢
「目指すは、新しいマージャン文化の創造」 - 第7回 漫画家 片山まさゆき
「盆面〈ぼんづら〉がいい人生。仕事も麻雀も。そうありたい」 - 第8回 株式会社アルバン 専務取締役 船越千幸
「奪い合うのではなく、増えるきっかけを生み出す」 - 第9回 健康麻将ガラパゴス創業者 田島智裕
「参加者に喜ばれ、なおかつ社会的意義のあることをやり続けたい」 - 第10回 株式会社日本アミューズメントサービス代表 高橋常幸
「希望が持てる業界を構築し、麻雀で社会を変えたい」 - 第11回 《More》プロデューサー 菊池伸城
「躊躇なく一気にやることで、世界は開ける」 - 第12回 麻雀キャスター 小林未沙
「想像力をどれだけ膨らませられるかが勝負です」 - 第13回 麻雀評論家 梶本琢程
「面白かったら続けたらいい。うまくいかなかったら次を考えたらいい」 - 第14回 麻雀AI開発者 水上直紀
「常識を疑い、固定概念を崩したい。強くなるために」 - 第15回 麻雀観戦記者 鈴木聡一郎
「ニュースがライバル。そう思って書いてます」 - 第16回 株式会社サイバーエージェント AbemaTVカンパニー編成部プロデューサー 塚本泰隆
「決断したことに後悔はしない。麻雀から学んだ思考です」 - 第17回 劇画原作者 来賀友志
「麻雀劇画の基本は〝負けの美学〟だと思っています」 - 第18回 株式会社シグナルトーク代表取締役 栢孝文
「始める、続ける、大きく育てる。愛する麻雀の“弱点”を補うために」 - 第19回 フリーライター 福地誠
「まだ本になったことがない新テーマの本を作りたい」 - 第20回 声優 小山剛志
「もがき、あがき、考える日々。一体いつまで続けられるのか」 - 第21回 映画監督 小沼雄一
「大変だけど、やってみる」 - 第22回 麻雀企画集団 バビロン総帥 馬場裕一
「プロは『人が喜ぶ』」 - 第23回 点牌教室ボランティア 松下満百美
「やってあげてるという意識は無いほうがいい」 - 第24回 フリーアナウンサー 松本圭世
「高校野球中継のスタンド取材が今に生きています」 - 第25回 子供麻雀教室講師 山本健
「好きな言葉は、テンパイ即リー、数打ちゃ当たる!」